リョーマが来てからもう1週間以上が過ぎたが、元に戻る方法は見付からずにいた。
手塚が所持している大量の本に何かヒントが無いかと、日本語を把握してからの毎日は、元に戻ってから寝るまでの短時間で何冊も読みまくっていた。
昼間に彩菜と見るワイドショーや、夕方のニュースなども頭に入れ色々と試したが、どれもこれも空振りに終わっていた。
だが、他人との共存に慣れてきた手塚は、この生活がいつまでも続けばいいとまで思うようになりつつあった。
「あ〜、気持ち良かった」
月の明かりを浴びて人間に戻ると、まずはパジャマ代わりの服を着てから、手塚が持って来てくれたタオルでまだ湿っている髪を拭き始めた。
「お前は本当に風呂が好きなんだな」
「うん、大好き」
今日は彩菜から「先にお風呂に入ってね」と言われてしまったので、リョーマを月明かりに浴びさせないようにして、風呂場に連れて行った。
子猫だから外に出ると危ないと、丸一日を家の中で過ごしている。
車の通りも近くに犬を飼っている家も無いので心配するような必要は無いが、母親がむやみやたらと可愛がり過保護にしているおかげで毛艶は良いままだ。
どうして毎日入るのかといえば、リョーマ本人が風呂好きだから。
人間の時は普通に入れるが、流石に猫の時は湯船に入られない。
なので、猫の時は洗面器にたっぷりお湯を入れてやると、ピョンとダイブして入っていた。
「そういえば、訊ねたい事があるのだが」
ベッドに腰掛けてリョーマの変身を見届けると、今になって様々な疑問が沸いて出てきた。
本来なら初めの日に聞いておかないとならないような事まで。
「あ、うん、何でも聞いて」
「…ご両親は?」
ならば、と始まった問答の初めは、リョーマの家族の話だった。
他の惑星に飛ばされた息子をどれほど心配しているのかなんて、自分が親の立場でなくても良くわかる。
「あ、それなら大丈夫だよ。俺さ、ちょっとした事情で生まれた時から親と離れて生活してるし、魔法の勉強で色々な場所に行くから、しばらくいなくても平気」
明るく言うリョーマに手塚は絶句する。
これが強がりなのか、それとも本当に親に対しては何とも思っていないのか。
ふと、リョーマの表情を盗み見てみれば、至って普通の顔をしている。
「…そうか。では…王は6人いると言っていたな」
この話題は後回しにし、今度はリョーマの世界に視点を変えてみた。
「あ、うん。そうだよ」
「水の王以外の王の名は何なのだ?」
「えっと…風の王と炎の王と…闇の王に聖の王に…あと1人は何だっけな…」
ん〜、と腕を組んで考え込む。
「…闇の王の方が悪いイメージなのだが違うのだな。しかしお前は自分の世界の事も知らないのか」
「今は思い出せないだけだよ」
手塚にバカにされて、ぷう、と頬を膨らませてから、ガシガシと髪を拭いていた。
が、それも一瞬の事で、リョーマはくすくすと笑う。
「王には個人名は無いのか?」
機嫌を損ねていないとわかると、次の質問に入った。
「あるけど、王になったら王の尊称で呼ばないといけないんだ。ここじゃ、二十歳で成人になるみたいだけど、俺の世界は16歳でね。王となる人は生まれた時から王になる為に勉強して魔法を習う。で、1番得意な属性を極めて成人を迎える日にその名を授かるんだ」
「では、魔法は誰でも使えるのか?」
初日に一生懸命魔法を使おうとしていたが、それっきり一度も使おうとしない。
しかしリョーマは魔法を使える事に代わりは無い。
「うーん、誰にでも使える能力はあるけど、教えてもらわないと無理だよ」
ベッドに座る手塚の横にリョーマも腰掛ければ、スプリングが軽く弾む。
「学ぶ場所でもあるのか」
「ん、この世界と同じ。学校があるよ」
タオルを肩に掛けると、顔だけを向けて話しを始めた。
「リョーマもそこに?」
「…俺は学校には行っていない。でも、誰かに教えてもらったはずなんだけど、誰に教えてもらったのかが思い出せないんだ」
「お前は自分の恩師を忘れたのか?」
先程の王の名前といい、自分の事も忘れているのかと呆れたように咎める口振りに、リョーマは小さく頭を振って否定する。
「忘れたって言うか、その辺りの記憶が無い。思い出そうとすると頭が痛くなって、すっごく気持ち悪くなって何も考えられなくなるんだ」
「記憶喪失なのか…それともこれも水の王の?」
「それもわからない。もしかしたら本当に水の王に記憶を操作されてるかもしれないけど。でも思い出したい。俺はすごく大切な何かを忘れているんだ」
顔を背けたリョーマは切なげに目を伏せる。
その何とも言い難い表情に心が乱させる。
こんな悲しげな表情なんて見たくは無い。
そう思った瞬間、手塚は自分がリョーマに向ける感情に気が付いた。
「…忘れろ」
「え?」
「辛いのなら全て忘れて、この世界で生きていけばいい」
「国光…」
「俺が傍にいる。何年も、何十年も」
リョーマが何かを言う前に、手塚はその身体を抱き寄せて、猫の時と同じ柔らかい黒髪に顔を埋めた。
「…何十年って、俺が大人になっても?」
広くて温かい胸の中に埋もれながら、その言葉の真意を確かめ始める。
自分はこの世界では存在していない人間。
無論、戸籍など無い。
何があっても保障されない。
そんな世界で生きていくのには、誰かの助けが無ければ到底無理な話だ。
「ああ…」
「お爺さんになっても?」
「ああ、そうだ。俺がお前を守ってやる。死ぬまで一緒にいる」
手塚は自ら進んでリョーマと共に生きると宣言した。
あの日、月明かりの中で人の姿に戻るのを見てから、同じベッドで眠るようになってから、リョーマに対して特別な感情が生まれ始めていた。
猫の時も朝は玄関まで見送りし、学校から戻ればドアを開けた音に反応し、走って出迎えに来てくれる。
自分だけが知りうる秘密を守るという使命感に加え、秘密を所持しているという緊張感は、それほど刺激の少ない生活の中で、生きているという充実感に満ち溢れていた。
その感情を与えてくれた相手を失いたくない。
出来る事ならこのまま自分の傍にいて欲しいと願うようになったのだ。
「…国光…」
完全に人間の姿に戻る為には、水の王に掛けられた魔法を解かないとならない。
水の王以外の王に詳細を話せば、この魔法を解いてもらえる事も出来るのに、飛ばされたこの世界から自分の住む世界に戻ろうとしても、ここではどうしても魔法を上手く使う事が出来ない。
最後の手段は水の王に訴えるだけだが、それだけは絶対にしたくない。
水の王に訴える事は、即ち自分が水の王の物になるという事。
しかし、リョーマにはそれだけは避けたい理由があり、どうしても駄目だと諦めた時の手段として残してある。
「…俺も国光の傍にいたい」
魔法を解いて元に戻っても、魔法を使う事が難しいこの世界から自分の世界に戻れる可能性は少ない。
それに戻っても、再び水の王に攫われるかもしれない。
それならばいっその事、ここで生きていくのもいいかもしれない。
「リョーマ…」
「…国光」
ぎゅっと服を掴み、包み込むように抱き締めている腕と胸に身体を預けた。
そっと身体を離すと、薄っすらと涙を浮かべているリョーマに顔を近付ける。
リョーマが瞳を閉じると涙が一粒流れ、手塚は指で涙を掬い取り、目尻に唇を押し付けると、次にリョーマの唇に重ね合わせた。
「…あの、俺、まだ国光に話していない事があるんだ」
「そうか。今じゃなくてもいい。これからゆっくり話してくれれば…」
優しいキスを何度も繰り返し、この夜の手塚はリョーマを抱いたままで眠りについた。
リョーマには、手塚に話していない秘密がまだある。
リョーマが思い出せない記憶を思い出し、手塚が全てを知る時はもう少し先の話だった。
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